滝井の人

諸正邦彦

2022.03.03

 「我想早點見到你 但請稍等片刻」
 
 みなさんは、死後の世界について考えたことや思ったことがあるでしょうか。
日本では、善行をつめば天国へ悪行を行えば地獄に行くと一般的にいわれています。
身内の方が亡くなれば誰もが悲しみ、天国で私たちを「見守り安らかに」という気持ちになると思います。
  さて、天国や地獄の捉え方は一神教であるキリスト教やイスラム教にある宗教観で、仏教では「六道」という考え方があります。「六道」とは、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道です。天道(天国)も含めてこの六つの世界を輪廻転生するといわれています。仏教の教えを実際に聞くことが出来るのは「人間」の世界です。「人間」の世界で仏法を聞く機会に恵まれることが出来れば「六道輪廻」から解放(解脱)され仏の世界である「浄土」(極楽)の世界にいくことが出来るといわれています。
 天国や浄土(極楽浄土)は、神(神々)、仏の世界でありそこでは苦しみや悩みなど全てのものから解放された世界であると言います。
  では、神道ではどうでしょう。七五三や新年のお参り、夏や秋のお祭りに厄年など私たちの生活の中で色々と身近な八百万の神々の世界があります。調べてみると、神道の死生観は肉体は物体であり器に過ぎないとのこと。この器が無くても魂は永遠にこの世に留まり生き続けるとされており、故人の姿形は見えなくても家族のそばにいて家族・子孫を見守る氏神になると考えられているとありました。                         
  このように見てくると、冒頭の「天国で私たちを見守り安らかに」という何気なく書いたこの言葉にはキリスト教や仏教、神道の考えが知らず知らずのうちに無意識に私たちに染みているいるかもしれないですね!?
  さて、わたしがなぜこのようなことを書いたのかを言いますと、2019年(令和元年)に妻を亡く、このことがをきっかけに死後の世界について考えるようになったからです。 私たちが認識できる世界は、「生」の世界ですが、一方で「死後」の世界もあるのではないか。「生と死」の二つの世界があり、私たちが存在している世界の対極に「死」の世界が存在しており、世界はこの二つの世界に支えられているのではと思うようになりました。
 例えば、善と悪、真と偽、正と邪、天と地、光と闇、物質と精神など180度対極にある世界がもう一つの対極を支えている。このことは理解できますね。 
  妻が生きていた時は、死ねば肉体も魂も滅び「無」となると考えていました。この「無」というのは「無くなる」という意味です。死後の世界の存在を否定的に考える傾向が強かったのですが、しかし、妻が亡くなってからは妻の存在の大きさ、妻に「支配されている自分」の存在に気づかされています。「支配」という言葉は少々きつく大げさかもしれませんが・・・妻との様々な記念日を子どもたち夫婦と在りし日の妻を偲び語り合っています。色々な思い出も折に触れ日常的に蘇ってきます。妻と訪れた思い出の場を再び訪れたいという思いは強いです。このように亡くなった妻はわたしの中で「生きている」、「生きている」からこそ、このような思いに駆られるのであろう。 大げさなことを言いますが「死諸葛走生仲達」(死せる孔明、生ける仲達を走らす)のような感じです。
 さて、このように考えてくると、わたしの中に生きている妻は「思い出」としての妻。「死」によって解放された妻は別の世界で生きていると思うようになってきています。
 死後の世界がどのようなものかは、誰にも分かりません。孔子がいう「未知生 焉知死」ですね。
 しかし、知らないからといって、その世界を否定することは出来ないと思います。否定することは傲慢であろうと思います。目に見えるもの、形ある物に触れてその姿・形を確認することが出来て、その存在を知ることが出来ますね。しかしその存在は永遠かというとそうではないです。
 一方で、見ることが出来ない、触れることの出来ないもの、すなわち「神の世界」(一神教であれ他神教であれ)は、20.00年以上も語り継がれその存在が意識されています。また世界宗教に共通して説かれている「天国」「地獄」の世界。これらの世界についてもその存在の確認のしようがないですが、しかし形ある物が滅びるという物理的世界とは異なり、神(神々)の世界とそれに連なる天国、地獄の思想(考え)は洋の東西に関係なく連綿と語り継がれ信仰の対象となっています。このような天国・地獄、善と悪の世界観は古代ペルシアの宗教であるゾロアスター教のアフラ・マズダー、アングラ・マイユ(アーリマン)の考えがベースになっていると世界史で習ったことを覚えているかと思います。
 ゾロアスター教の天国・地獄の宗教的捉え方はキリスト教、イスラム教そして仏教にその影響を与え今日に至っています。この天国・地獄の世界は実在のもの、そうでない架空のものかは、誰にも分からない世界であるがゆえに一概に否定できることは出来ません。 さて妻を亡くし、素直に妻が天空の世界から私や私の子どもたちを見守っていて欲しいと思う私がいまさす。
 このように話を進めてくると、この文章の冒頭の部分にまたもや戻っていくことになりますね。私のような宗教的信仰心のないものは「天国や極楽浄土」で、家族を見守って欲しいと願ってしまうのです。
  このように思うのは、妻は「亡くなった」が、正に「生きている」から・・・
 では、どのような世界で「生きている」のか。短絡的には天国、極楽浄土、神々の世界ということになろう。残された者にしてみればそうであって欲しいと願う。しかし、われわれを見守るということは、天国や神々の世界、極楽浄土の世界で可能でしょうか。これらの世界は、穏やかで慈愛に満ち溢れた世界であり、「恵み」と「光明」の地であると考えられています。
 ですから、彼の地でゆっくり、ゆったりと暖かい懐にかれ、生前の疲れを癒やして欲しいと願っているわたしがいます。
 
 死後どこで出会うことが出来るのか、分かりませんがわたしが亡くなったら再び出会い、二人一緒に私たちの二人の子どもとその家族を「あーやない、こーやない」とハラハラ・ドキドキしながら天空から見守っていきたいという強い思いがあります。。
 
「もし、次の世界があるのなら、そこで会いたい人は?」と問われたら、先に亡くなった両親や弟、親戚の叔父叔母と答えるだろう。しかし一番最初に出会いたいのは「妻」である。
 亡くなった時にかけた言葉を今も思い出す。
 
 「非常感謝!」
 「謝謝你感謝、我的心中只有一個你!」
 「再見吧、一定見面吧!!」
 「我愛你(太太)千秋万世直到永遠!!」
 
 心臓が止まり死を迎えても聴覚はしばらく機能していると聞く。
 「死」はあらゆるものからの解放でり、とりわけ苦痛や苦悩からの解放です。
 死によって苦痛や苦悩から解放された「魂」は軽やかであり、天空(「神の国」)をめざし昇っていく。
  わたしが亡くなったら妻と再会を果たし、妻が亡くなってからの諸々のこと、その後のわたしの人生についてなど聞いてもらいたいことがいっぱいある。再会出来る日が楽しみであり、この再会こそが「無上の喜び」であり、人生を卒業するまでの「生きる糧」になっている。妻と再会出来る幸せが待っていると思うと、再会したときに妻に恥じることのない生き方をし、胸を張って再会できるようにしたいと思う。
 妻はキリスト教徒なので妻のいる世界は間違いなく「神の国」。わたしはキリスト教徒でないけれど妻のいる「神の国」の荘厳華麗な扉を開き、妻と必ず再会を果たすつもりでいる。
  そして、妻と一緒に二人の子どもとその家族を見守っていこうと思う。
                                                                       
  さて、みなさんにとってかけがえのない人はどなたでしょうか。
お父さん、お母さん、兄弟、祖父母、親戚の方、従兄弟、友人など様々だと思います。
そのかけがえのない方々と日々どのような接し方をされているでしょうか。
 わたしは、親愛の情や朋友の信は何物にもまして大切で大事なものだと思っています。この思いが大切な人を亡くした時に表れてくる世界が天国、極楽浄土、見守る氏神に繋がっていくのだと改めて思うようになりました。
 生徒のみなさんは、まだまだ若いですから、今日のこの文章の意図するところは難しいかと思いますが、要は「死」で完結するのではなく「死」は新しい「生」の始まりなのだということです。
 この「第二の生」が如何なるものとなるかは、その人の生前のありように関係してくるかも知れないですね。ちょっと厳しいかも知れませんが、善因善果・悪因悪果の因果応報。 自己と他者との「間柄と思いやり」を私たちは大切しなければならないと思っています。この「間柄」というのは、人間は相互補助的、相互補完的な存在で一人一人が紐帯であるということです。そして「思いやり」は日々の生活での人間関係を築く基本だと思います。ここで、わたしが大切にしている言葉、「日常六心」を紹介します。
 
        「はい」という素直な心     「私がします」という奉仕の心
        「有難う」という感謝の心   「すみません」という反省の心
        「おかげさま」という謙虚な心  「他者」を受け入れ認める慈愛の心
 
 私たちは「紐帯」的存在ということを自覚しているでしょうか。そして「日常六心」を日々実践しているでしょうか。
 「 天知る、地知る、己知る」ですね。                 
 
 「間柄と思いやり」を念頭に「日常六心」を実践し、前述したように、妻と再会したときに恥じることのない生き方をし、胸を張って再会できるようにしなければならないと思っています。
 
 ちょっと難しいですが、最後にドイツの哲学者でカントという人物が次のように言っています。味わってみて下さい。
「あなたの人格や他のあらゆる人の人格の内にある人間性を、いつも同時に目的として扱 い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」
 
 人生の黄昏時にさしかかった今、かくありたい呟き(独り言)!?
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