滝井通信

明るければ強し

2020.08.25

 今日は2学期の始業式、今日から2学期のスタートです。以下、始業式での校長先生のお話しです。
 

 みなさん、おはようございます。校長の松下です。今日は2学期の始業式です。みなさん、夏休みはどう過ごしましたか?今年の夏休みはいつもより短かったことに加え、不要不急の外出も極力控えるよう呼び掛けられている状況でしたので、例年とはだいぶ様相の違う夏休みになったかもしれませんね。私も例年ですと夏休みはもっぱら旅行に行くことが多いのですが、今年は旅行は止めにして、夏休みのテーマは「地元ミニ探究」にしました。私は寝屋川で生まれ育ったのですが、大学から東京に出て、この学校に来る直前まではほとんどが東京暮らしだったため、地元のことは知っているようで実はあまり知らないからです。私はランニングが趣味なので、寝屋川だけでなく、枚方や守口、門真、四條畷と思いつくままに走りながら、「昔と随分風景が変わったなぁ」とか、「こんな所にこんなものがあったのか」とか、色々な発見をしながら町を行き、気になったことは家に帰ってから調べたりしていました。その中で一つ、自分としてはこの歳で初めて知ってビックリしたことがあったので、皆さんにもお話ししたいと思います。

 皆さん、「成田山不動尊」って知ってますか?寝屋川の香里園にあるお寺ですが、京阪電車の香里園駅に着くと、「香里園、香里園、成田山不動尊前です」と言うあの成田山です。成田山は、千葉県にある名刹、大本山成田山新勝寺の大阪別院です。私の実家のすぐ近くにあって、私にとってはあまりに身近すぎる存在です。成田山の目の前にあった中学校に通っていたので、部活のバスケ部の練習でよく境内の階段を何往復も走らされました。今も初詣には毎年必ず成田山に行きます。この夏休みに、そんな成田山の前をランニングしていた時に、ふと思ったのです。「なんで成田山はここにあるんやろ?」「あの有名な成田山新勝寺の大阪別院が何で寝屋川にあるんやろ?」と。気になるとそのまま放っておけない性格の私、自分で調べてみました。それは何故だったのか?その答えは、「そこに遊園地があったから!」でした。

 時は1910年(明治43年)、京阪電車の開通に合わせて、今の成田山を中心とした丘陵地に「香里遊園地」が開設されました。「遊園地」と言っても、「大きな公園」のイメージに近いもので、売りは “菊人形展” でした。しかし、この「香里遊園地」は開設からわずか2年後に枚方に移転されます。そう、これが現在の「ひらかたパーク」誕生の起源になります。

 その後、「香里遊園地」の跡地は京阪が住宅地として開発しようとしますが、なかなか思うように開発は進みませんでした。それは、今の寝屋川市を含む北河内地域は大阪の北東部、すなわち “鬼門” にあたったからです。“鬼門” とは鬼の出入りするところ、という意味です。当時はそんなことを皆んな信じていたんですね。京阪は「この地域に鬼は出ない」ということをアピールするために、遊園地跡地の広大な土地を寄進して、成田山新勝寺の大阪別院の建立を誘致しました。そして1934年(昭和9年)に、守護神として霊験あらたかなる成田山の不動明王をお祀りすることで、「成田山不動尊」が誕生したのです。

 成田山の主要な行事の一つに『節分祭』があります。「鬼は外」「福は内」のあの節分です。しかし、成田山の節分では「鬼は外」とは言わずに、「福は内」だけを言い続けるそうです。
なぜなら、そう、成田山には “鬼” はいないからです。面白いですね。

「香里遊園地」の当時の写真です。
「香里遊園地」の当時の写真です。
現在の「成田山不動尊」
現在の「成田山不動尊」

 さて、みなさんも一人ひとり、それぞれの今年しかない夏休みを送ったことでしょう。今日はそれぞれの夏休みを披露し合うのもいいかもしれませんね。さあ、いよいよ2学期のスタートです。2学期のスタートにあたり、みなさんに一言。みなさん、“明るければ強し” です。まだまだ少し窮屈で、気持ちもスカッと晴れない世の中ですが、現状に不平不満を言っていてもつまりません。過去と他人(ひと)は変えられません。変えられるのは自分と未来だけです。今自分に出来ることは何か、今自分は何をやるべきか、そうした前向きな明るい発想で、2学期も頑張っていってください。私の話は以上です。どうもありがとうございました。